梅雨の商店街で、初恋のあなたが再開発を告げに来る
第2話 あの日、渡せなかった手紙
雨はまだ降り続いていた。
商店街組合の会議室は、古い呉服屋の二階。黒光りする柱と木製の窓枠が、ここだけ時間を止めている。十二人分のパイプ椅子が窮屈に並び、壁際の古い扇風機はうつむいたまま梅雨の湿気に耐えていた。
私は入口に近い隅の席に腰を下ろす。左膝が鈍く痛む。朝からずっとだ。
隣の青果店の松村さんは腕組みをして座っている。いつもは無言でコーヒーを受け取る常連が、今日は同じ無言でも種類が違う。
伊勢は正面のホワイトボードの前に立っていた。濃紺のスーツで、昨日よりかっちりとしている。資料を一枚ずつイーゼルに貼る指先に迷いはない。
「お集まりいただき、ありがとうございます。東和不動産の伊勢です」
守谷さんが伊勢の横で軽く頷いた。
「本日は、先般お配りした再開発計画の詳細案についてご説明し、皆さまのご意見を伺いたいと思います。進行は私、守谷が務めます」
伊勢が資料の一枚目を示す。商店街の航空写真に、三棟のビルが重ねて描かれていた。一階は商業施設、二階以上は分譲マンション。数字と図面が整然と並んでいる。
「現在の建物の老朽化率ですが——」
「待ってくれ」
声が飛んだ。一番奥の席。組合長の古谷市子さんが、両手をテーブルについたまま立ち上がる。七十歳を過ぎてなお背筋の伸びた人だ。祖母トキの同級生で、乾物屋を営んでいる。
「その前に、あんたに聞きたい」
古谷さんは伊勢をまっすぐ見た。伊勢は手を止め、静かに彼女に向き直る。
「なんですか、外の人間にこの街の未来を決められてたまるか、と言いたいんでしょう」
空気が凍った。
古谷さんの目が見開かれる。松村さんが腕組みを解いた。誰かの椅子が小さく軋んだ。
「この街で生まれ育ったわけでもない。ここで商売をしたこともない。そんな人間が——」
「おっしゃる通りです」
伊勢の声は落ち着いていた。でも、その落ち着きが逆に怖い。
「私はこの街の人間ではありません。ですから、この計画が皆さまにとってどれほどの意味を持つか、完全に理解できるとは申しません」
一拍置いて、伊勢は続けた。
「しかし、この資料の数字は嘘をつきません。柱の傾斜は六年前の耐震基準を下回り、配管の老朽化は——」
「そういうことじゃない」
古谷さんが遮った。声は低く、でも震えている。
「あんたたちはいつも数字だ、効率だ、将来性だと言う。でもな、この街には数字にならないものが積もってるんだ。トキさんのサイフォンから立つ湯気も、祭りの日に子どもが走る音も、ぜんぶ——ぜんぶだ」
古谷さんの声が詰まった。その時、伊勢の右手が、一瞬だけ強く握られたのを私は見た。
「左様でございますか」
伊勢の声は崩れなかった。いや、崩さなかった。丁寧で、隙がなくて、その完璧さが痛い。昔の彼なら、もっと脆くて不器用な怒り方しかできなかったはずだ。その変化が、十年という歳月を私に突きつける。
松村さんが口を開く。
「おい、若いの。ちょっと言い方が——」
「松村さん」
私は気づいたら声を出していた。
「今は、説明を聞きましょう」
松村さんが私を見る。古谷さんも、伊勢も。
私はテーブルの上の資料に目を落とした。指が震えそうで、膝の上で握りしめる。
「……続けてください」
私が言うと、伊勢は小さく息を吐いた。資料のページをめくる音がやけに大きく響く。
会議はそれから一時間続いた。肉屋の田代さんが「テナント料は今の三倍になる」と声を荒げ、古谷さんは最後まで腕を組んだままだった。守谷さんが「次回、正式な採決を行います」と宣言し、散会となったのは午後三時半を回った頃だ。
パイプ椅子を片付けていると、守谷さんが伊勢に歩み寄り、胸ポケットから名刺を差し出した。
「伊勢さん、非公式に話がしたい。私の事務所で」
伊勢は一瞬だけ名刺を見つめ、受け取った。
「どういったご用件で」
「再開発のことで」
守谷さんはそれだけ言って、私の方をちらりと見た。何か言いたげだったが、結局そのまま伊勢を連れて階段を降りていく。伊勢の背中が暗い階段に消えるまで、私は動けなかった。
会議室に残ったのは、私と古谷さんだけになった。
「千景さん」
古谷さんがようやく腰を上げる。議事録の草案を抱え、そのまま背を向けた。
「トキさんに言われたんだよ。『千景を頼む』ってね」
階段へ向かう足音が、ひとつ、ふたつ。
「でも、あんたはもう——」
古谷さんは振り返らなかった。湿った空気の中に、その後の言葉だけが残る。
「一人で立てるよ」
古い階段がきしむ音がして、呉服屋の二階は静かになった。
店に戻ったのは四時を過ぎていた。
「陽だまり」の中はひっそりと静まり返っている。朝、割れたカップの破片を新聞紙に包んだまま、カウンターに置いてあった。
私はカウンターの奥に回り、膝をつく。
棚と壁の隙間。茶色い封筒。
まだそこにある。
震える指で封筒を手に取った。和封筒はざらついていて、長い年月を感じさせる。祖母の字で「ちかげへ」とだけ書かれていた。
封を切る。中から出てきたのは、白い便箋が三枚。罫線のない、少し厚手の紙。
祖母の字ではなかった。
几帳面だけど、角が少し丸い文字。漢字は小さく、ひらがなは大きい。癖のある字。私はこの字を知っている。
伊勢の字だ。
『千景へ』
最初の一行で、息が止まる。
私は床に座り込んだ。膝が痛むが、それどころじゃない。
便箋をめくる手が止まらない。そこには、十年前の真実が綴られていた。伊勢が私の将来を思って身を引いたこと、ずっと忘れていなかったこと——一言一言が胸の奥に突き刺さる。
最後の行で、涙が落ちた。
コーヒーの匂いがまだ店の中に漂っている。
私は手紙を胸に抱えたまま、動けなかった。あの時、彼が去った理由を何も知らなかった。知ろうともしなかった。傷ついた自分を守るのに必死で、彼のことを何も見ていなかったのだ。
どれくらいそうしていただろう。
時計の針が五時を回る頃、ようやく立ち上がる。手紙を丁寧に折り畳み、封筒に戻した。祖母の遺品をしまってある小箱をカウンターの引き出しから取り出し、その中にそっと入れる。
スマートフォンがカウンターの上で光っていた。手に取る。伊勢の番号は、守谷さんが作った組合名簿に書いてある。
でも、だめだ。
私はスマートフォンを伏せて置いた。
直接会って話す。言葉は声で伝える。それが彼の手紙への、せめてもの返事だ。
でも、今日はもう遅い。雨もまた強くなり始めている。
朝の破片を片付け、モップをかけ、カウンターを拭いた。ふと、カウンターの古い引き出しの隙間に指を入れた時、不意に思い出す。
高校二年の冬。階段で転んで膝を痛めた、あの日。
私が伊勢に渡そうとした手紙があった。
どこにしまったんだろう。この店のどこかにあるはずだ。
外が暗くなった。
雨音が軒先を叩く。明日、伊勢に会いに行こう。手紙を読んだとは言わなくても、ちゃんと話をしよう。
そう決めた瞬間だった。
店の外に、誰かが立っている気配がした。
顔を上げる。
雨が降り出した夜道の向こう、街灯の下に、スーツ姿の男が一人、店の明かりを見つめて立ち尽くしていた。遠すぎて顔は見えない。でも、肩を雨に濡らしたまま動かないその影に、胸の奥がぎゅっと軋む。