梅雨の商店街で、初恋のあなたが再開発を告げに来る
第3話 雨音の中、封を切る
開店前の「陽だまり」は、雨の日にだけ漂う独特の匂いがする。湿気を含んだ木の匂いと、昨日焙煎した豆の残り香。まだ誰もいない店内で、私はカウンターの引き出しを一つずつ開けていた。
高校二年の冬だ。
伊勢に渡そうとした手紙を、私は確かにこの店のどこかに隠した。祖母には見つからないように、でも自分はすぐに取り出せる場所へ。あの頃の私は、告白することばかり考えていて、隠し場所の記憶はぼんやりしている。
「どこ……」
引き出しの中は整理されている。領収書、注文票、古いマッチ箱。どれも祖母の几帳面さを残したまま、私が引き継いでから手をつけていないものばかりだ。
左膝が鈍く痛む。雨脚が強くなる前兆。
ふと、祖母の声が頭の奥で響いた。
『大事なものはね、陽の当たる場所に隠すのよ』
陽の当たる場所。
私は顔を上げた。店の南側、窓際の床板。朝日が最初に差し込む場所で、祖母はいつも観葉植物を置いていた。今は何もない。
床に膝をつく。この膝だ。高校二年の冬、階段で転んで痛めた膝。伊勢が手を差し伸べてくれた、あの日。
指で床板を一枚ずつ押してみる。三枚目で、かすかに軋んだ。
浮いている。
私は爪を立てて慎重に板を持ち上げた。下には浅いくぼみがあって、そこに——
あった。
ビニール袋に包まれた、黄ばんだ封筒の束だ。十通以上ある。どれも同じ便箋で、同じペンで書かれたものだ。私の字だ。
手が震えて、うまく掴めない。
封筒を胸に抱えたまま、私はカウンターに戻った。一つも開けられずに、ただ置く。
コーヒーを淹れようと思った。祖母のサイフォンをセットして、いつもの三分三十秒を計る。でも、今日は火をつける勇気が出なかった。きっと手が震えて、またカップを割る。
店の外では、雨がまた降り始めている。
午前九時を過ぎた頃、私は開店準備を中断した。
スマートフォンを手に取る。伊勢の番号を表示させる。昨夜は伏せた。でも、もう迷わない。
コール音が三回。
「……はい」
伊勢の声は少し掠れていた。寝ていなかったのかもしれない。
「雨宮です」
敬語が自然に出た。感情を抑えている証拠だと、自分でもわかっている。
「今日、閉店後に……店に来ていただけますか」
受話器の向こうで、一瞬の沈黙。雨音だけが聞こえる。
「はい、伺います」
伊勢も同じだった。静かで正確な敬語。それがかえって、彼の動揺を伝えている。
私は電話を切った。
時計の針が夜の八時を回る頃、ドアベルが鳴った。
伊勢は傘を店の外でたたみ、水滴を払ってから入ってきた。スーツに雨の匂いが染みついている。左手首の古い時計が、蛍光灯の下で鈍く光る。
「遅くなりました」
「いえ」
私はカウンターの奥で、サイフォンの火を消すところだった。ちょうど三分三十秒。祖母が決めた抽出時間。今日は一度も狂わなかった。
「コーヒーを淹れました。よろしければ」
「いただきます」
伊勢は一番手前の席に腰を下ろした。私がカップを置くと、彼の指が取っ手に触れる。でもまだ飲まない。湯気が二人の間で揺れる。
「あの手紙……」
私が先に口を開いた。
「祖母が預かっていた手紙、読みました」
伊勢の手が、かすかに止まる。
「あなたが、私の将来を思って身を引いたこと。ずっと忘れていなかったこと。全部」
伊勢は俯いたまま何も言わない。
私はカウンターの下から、さっき見つけた封筒の束を出した。黄ばんだ封筒が十以上、カウンターの上に小さな山を作る。
「私も、あなたに渡せなかった手紙が、ここにあります」
伊勢が顔を上げた。彼の左手首で、古い時計が秒を刻む。十年間、止まらずに動き続けてきた音だ。
「高校の時、あなたに渡そうと思って……でも出せなかった」
「千景さん」
伊勢の声が変わった。敬語が消えている。
「十年前、僕はあなたに何も言わずに逃げました」
彼はカップを持ち上げ、一口飲んだ。
「あなたの未来を壊したくなかった。大学に行くはずだったあなたが、僕のせいでこの街に縛られるかもしれないと思った」
「逃げたんじゃない」
私は首を振る。
「祖母は……祖母は、きっとわかってた。あなたが私を守ろうとしたって」
伊勢の指が、カップの縁をなぞる。
私は封筒の束から、一番上にある一通を手に取った。他のより少しだけ厚い。最後に書いた手紙だ。
「開けます」
伊勢は黙って見ていた。その目が初めて、何かを期待している。
封を切る。中から出てきた便箋は、湿気で少し固くなっている。罫線がかすかに浮き、隅には小さな花の押し花が貼りつけてあった。祖母が庭で育てていた紫陽花だ。高校二年の夏、祖母は「これを使いなさい」と言ってくれた。何に使うかは言わなかったのに。
広げる。十年前の私の文字。
『伊勢諒くんへ。私はあなたに、一度も好きだと伝えられなかったことを、今も後悔しています』
その先にも文字は続いている。でも、今はまだ読めない。
伊勢が立ち上がった。
一歩、近づく。指がカウンターに触れる。便箋に触れるか触れないかの距離で、止まる。
「俺も」
声が震えている。会社の方針に背く覚悟をしてきた男の声とは思えないほど、か細い。
「俺も、ずっと……後悔してた」
千景さん、ではなく、千景。
まだ名前を呼んでくれている。
顔を上げると、伊勢の目に涙が浮かんでいた。一度も見たことがない表情だった。高校の頃も、つい数日前の再会の時も、彼はいつも何かを抑えている顔をしていた。でも今は違う。
「読んで、いいか」
伊勢が問う。
私は頷いて、便箋を彼の方に押しやった。
雨音が強くなる。軒先を叩く音が、店の中の沈黙を埋めていく。伊勢は便箋を手に取り、一言一言を目で追い始めた。
その横顔を、私はただ見つめていた。
カウンターの上には、まだ開けていない手紙が十通以上ある。でも、今はこの一通だけで十分だ。二人で同じ文字を読める。十年前にはできなかったことを、今、ようやく。
伊勢の左手首で、古い時計が時を刻み続けている。