梅雨の商店街で、初恋のあなたが再開発を告げに来る
第4話 次の雨が来る前に
夜が明ける。
カウンターに突っ伏したまま、私の意識はゆっくりと浮上した。首の筋が痛む。左膝はずっと鈍く疼いていて、明け方に少し和らいだ気がするが、それでも重い。
顔を上げる。
伊勢が、向かい側に座ったままだった。
背もたれに寄りかかり、目を閉じている。寝ているのか、それとも。左手首の古い時計の秒針だけが、静かに動いていた。カウンターの上には、昨夜開けたラブレターが一通。彼の手の届く場所に置いてある。読み終わったあと、二人とも言葉が出なかった。そのまま、どちらからともなく目を閉じて。
私は立ち上がり、音を立てないようにカウンターを回った。
サイフォンに手を伸ばす。祖母の遺した道具は、今は私のものだ。豆を挽く。湯を測る。アルコールランプの小さな火が、まだ薄暗い店内にオレンジの光を落とした。抽出時間は3分30秒。祖母が決めた味。伊勢も知っている味だ。
コーヒーが落ちきるまで、私はカウンターに背を向けていた。
「……千景さん」
振り返らなかった。
「もう少しでできます」
サイフォンのガラスがカタリと鳴った。火を消す。カップに注ぐ湯気の立つ液体をトレイに載せ、伊勢の前に置いた。彼の目はもう開いている。寝ぼけてはいない。何かを決めた目だ。
「ありがとう」
一口飲む。私は自分のカップも持ってきて、カウンター越しではなく、彼の隣の席に座った。ひとつ空けた椅子。近すぎず、遠すぎず。
「祖母が、この味を決めたのは十九のときだそうです」
「トキさんから聞いたことがあります」
伊勢はカップを両手で包み込んだ。
「初めて店を持った日、常連になるはずの人が『これなら毎日来る』と言った。それからずっと、この味だって」
「あなたにも、そう言ってました」
「ええ」
雨はもう上がっていた。窓の外のアスファルトが濡れて光り、空はまだ灰色だ。梅雨は明けていない。
伊勢がカップを置いた。
「今日の臨時総会で、僕は会社の方針に反します」
静かな声だった。昨夜とは違う。感情を抑えているのではなく、すでに覚悟を終えた声。
「折衷案を出すつもりです。商店街の半分を保存区域に指定して、残りを再開発する。会社の原案は全撤去ですから、完全な違反行為です」
「それで」
「これで最後です」
伊勢は私の目を見た。
「今日の総会が終わったら、会社を辞めます。八木沼の不正も、本社に報告する。そして」
彼は言葉を切った。左手首の古い時計を、無意識に親指でなぞる。
そして。
その先は言わなかった。言う必要はない。この街を離れる。まただ。十年前と同じ。でも、今度は違う。少なくとも、黙ってはいなくなる。
「わかりました」
私はカップを持ち上げた。指先がかすかに震える。でも、声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
「コーヒー、冷めないうちに」
伊勢は小さく笑った。初めてだった。十年前の教室で見たのと同じ、目尻に皺の寄る笑い方。
「いただきます」
彼は残りのコーヒーをゆっくりと飲み干し、立ち上がった。スーツの襟を直し、鞄を持つ。
「では」
「はい」
私はドアまで見送った。鍵を開ける。外の湿った空気が流れ込む。
伊勢は振り返り、何か言おうとして、やめた。ただ一度、深く頷いただけだった。
ドアが閉まる。足音が遠ざかる。
店内に戻った私は、カウンターに残された二つのカップを見下ろした。祖母のレシピ。伊勢が最後に飲むコーヒー。最後。
左膝がずきりと痛んだ。また雨が来る。
私はエプロンを外し、電話を手に取った。
「守谷さん、私も総会に出ます。組合員じゃないけど、聞いてほしい話があるんです」
午後二時。商店街組合会館の二階、大会議室。
窓が少なく、蛍光灯の白い光が場を満たしている。折りたたみ椅子が五列に並び、四十人近い地主と店子が詰めかけていた。最前列には八木沼が腕を組み、その隣に伊勢が座っている。濃紺のスーツ姿はいつも通りだが、顔色が少し悪い。
私は最後列の隅、傍聴用のパイプ椅子に腰掛けていた。
「……以上が、東和不動産の提案する再開発計画の最終案です」
八木沼の説明は手慣れていた。資料を示し、数字を挙げ、未来図を語る。三棟の複合ビル。一階は商業施設、上層階は分譲マンション。駐車場は地下に六十台。工期は十八か月。
「採決に移ります」
組合長の声が会場に響いたそのとき。
「お待ちください」
伊勢が立ち上がった。
八木沼が振り返る。目が鋭く細められた。
「伊勢くん、何か」
「別の案を提示します」
伊勢は資料を持って前に出た。その動きの途中で、左手首に指をかける。革ベルトの留め具を外し、古い時計を議長席の机の上に、そっと置いた。
私の心臓が跳ねた。
それは十年前のままの時計だった。高校のとき、いつもつけていた、文字盤に細かい傷のある時計。彼が会社の人間としてではなく、伊勢諒としてここにいる。その印だった。
「商店街の南側半分を保存区域に指定し、北側のみ再開発します。南側の店舗は耐震補強と設備更新を行い、現状のまま営業を継続できます」
「何を言ってるんだ、君は」
八木沼の声が低くなる。
「その案は社内で否決されたはずだ。そもそも収支が」
「私個人の提案です」
「会社の方針に背くと言うのか」
「はい」
伊勢の声は静かだったが、会場の全員に通った。
「八木沼部長が地主の方々に行った買収工作も、本社に報告します」
どよめきが広がる。八木沼の顔が赤を通り越して白くなる。彼は隣の地主の一人を振り返り、顎で合図した。
「ちょっと待ってくれ」
立ち上がったのは商店街の東端で寝具店を営む男だった。組合員歴の長い、口数の少ない初老の店主だ。
「伊勢さん、あんたよそ者のくせに勝手なことを言うな。買収だのなんだの、証拠でもあるのか」
「あります」
声は別の方向から聞こえた。
守谷直弥が、会場の中央列で立ち上がる。いつものグレーの作業着ではなく、今日は珍しくジャケットを着ていた。手に持った封筒を掲げる。
「藤田さん、あんたが八木沼から受け取った二百万の振込記録、ここにあるよ。先週の木曜日、東和不動産の関連会社名義で振り込まれてる」
藤田の顔が硬直した。守谷は続ける。
「わしも商売人だからね。金の動きには敏感なんだよ。他にも二人、同じような取引をしてる人がいる。名前、ここで言ってもいいんだが」
「……やめてくれ」
藤田が椅子に崩れるように座り込む。
八木沼はもう何も言わなかった。口を真一文字に結び、伊勢を睨みつける。
組合長が咳払いをした。
「ただちに折衷案を正式議題として認める。伊勢くん、詳細な説明を」
伊勢は頷いた。彼の左手首には、もう時計はない。
説明は十五分ほど続いた。保存区域の範囲、補助金の申請計画、段階的な工事スケジュール。私はその間、伊勢の手元をずっと見ていた。時計を外した手首には、白く細い痕が残っている。十年間、彼はあの時計と一緒にいたのだ。
「……以上です。ご審議をお願いします」
伊勢が席に戻る。
会場がざわつき始めた。賛成派と反対派の声が入り混じる。
「よそ者の言うことなんて」「でも藤田が」「トキさんが生きてたらなんて言うか」
私は立ち上がっていた。膝の痛みを無視して。自分が何をしようとしているのか、半分もわかっていなかったけれど、身体が動いていた。
「すみません」
声は震えていた。最前列の市子が振り返り、目を見開く。
「私は喫茶店『陽だまり』の雨宮千景です。組合員ではありません。でも、聞いてください」
組合長が眼鏡の奥から私を見た。守谷が小さく頷く。伊勢は、ただ私を見つめていた。
「この商店街には、祖母が六十三年暮らしました。私はその半分も生きていません。でも、祖母の淹れたコーヒーを飲んで育った人間なら、ここにはたくさんいるはずです」
声が震える。それでも止まらなかった。
「伊勢さんが今日、会社に背いて折衷案を出したことは、さっき初めて知りました。でも——」
私は伊勢の目をまっすぐ見た。あの時計のない手首を、ちらりと見て。
「私はこの人が真剣だって、知っています。会社の看板を外した、ただの人間として、ここに立っている。だから、信じられます。この案を」
一拍の沈黙。
市子が立ち上がった。
「……あたしは反対だった。トキが死んで、よそ者が来て、全部壊すんだと思ってた。でも」
彼女は私に向き直り、少しだけ口元を緩めた。
「トキが昔言ったんだよ。『千景を頼む』って。あのときはなんのことかと思ったけど、今ならわかる。あんたはちゃんと、自分の足で立ってる。トキの味を守って、人のことも見てる」
市子は組合長に向かって、はっきりと言った。
「古谷市子、折衷案に賛成する」
その瞬間、会場の空気が変わった。反対派だった顔が次々に頷き始める。市子は十五年以上この商店街で理髪店を営んできた、口の悪さと面倒見の良さで誰もが一目置く存在だ。彼女が動いた意味は、誰よりも組合員たちがよく知っている。
「採決を取ります」
組合長の宣言で、全員が手を挙げた。
結果は、三分の二をわずかに超える賛成だった。
折衷案は可決された。
拍手はまばらだった。驚きと戸惑いがまだ勝っている。八木沼が乱暴に席を立ち、資料を抱えて会場を出ていく。その足音だけがやけに大きく響き、ドアが閉まると同時に、何かが終わったのだと身体で理解した。
伊勢は小さく息を吐き、ゆっくりと席を立った。組合長の元へ歩み寄り、鞄から封筒を取り出す。
「辞表です。本日付で」
「……そうか」
組合長は封筒を受け取り、伊勢の肩を軽く叩いた。伊勢は一礼し、そのまま会場を出ようとする。
「伊勢さん」
声が出た。
廊下で追いつく。早足の背中に、もう一度。
「待ってください」
伊勢の足が止まった。でも振り返らない。
「ご迷惑をおかけしました。これで終わりにします」
敬語だった。朝の、あの笑った顔はもう消えている。声だけが、かすかに震えているように聞こえた。
「これで、って」
「千景さん」
名前を呼ばれたのに、彼はまだ振り返らなかった。
「ありがとうございました」
「待って」
私は一歩踏み出した。左膝が鋭く痛む。湿った風が廊下の窓から入り込み、外ではもう雨がぽつぽつとアスファルトを叩き始めていた。
伊勢は振り返らずに、階段を下りていく。足音が遠ざかる。一歩ごとに、遠ざかる。
私はその場に立ち尽くした。
手を伸ばしても届かない距離。十年前と同じ。いつも同じ。私が追いつく前に、彼はいつも行ってしまう。
雨音が強くなる。窓ガラスを叩く水滴が、廊下の静けさを埋め尽くしていく。左膝の痛みが、骨の奥からせり上がるように疼いた。今日は特にひどい。気圧のせいか、それとも。
私は壁に手をついて、目を閉じた。
守谷が廊下の向こうから歩いてくる気配がした。でも声はかけられなかった。今は何を言われても、言葉が返せそうになかった。
陽だまりに戻らなければ。
カウンターの下、床板の隙間に、残りの手紙がしまってある。まだ読んでいない手紙。十年前の私が、渡せなかった言葉の束。
あの手紙を、今度こそ。
私は壁から手を離し、痛む膝をかばいながら歩き始めた。外は本降りだ。
けれど、頭のどこかで決めていた。伊勢が町を出る前に、残りの手紙を全部、自分の手で開けよう。祖母が守ったこの店で、一人で全部読み切ったら、それから。