雨の降る商店街で、初恋のあなたと十年ぶりに再会したけれど、互いに知らないふりをしている
第1話 十年前の蝉時雨
集会所の蛍光灯は、半分が切れかけていた。残ったもう半分も心許なく、絶えずかすかな明滅を繰り返している。ぽつり、ぽつりと雨だれの跡が天井に染みていて、その輪郭はまるで古い地図のように不規則に広がっていた。古い木の椅子は座るたびにぎしりと鳴き、集まった店主たちのため息を吸い込んで、座面には使い込まれた飴色の艶が浮いている。空気は湿り、どこか糊の腐ったような甘さが鼻についた。
私は配られた資料に目を落としたまま、まだ顔を上げられずにいる。
『星見商店街第一種市街地再開発事業 基本計画概要』。
表紙の明朝体が、やけに冷たく見えた。角版で組まれたその文字は、紙の上で無機質に主張し、指でなぞっても体温を返してはくれない。私は何度も同じ行を読み返しては、内容が頭に入らないもどかしさに、そっと唇を噛んだ。
「——以上が、東都都市開発の提案する再開発計画の概要となります」
司会の男は五十嵐と名乗った。歳の頃は四十前後だろうか。落ち着いたバリトンで、淡々と数字を積み上げていく。敷地面積、容積率、工期、テナント想定賃料。その声は抑揚を抑えすぎていて、かえってすべてを決定事項のように響かせた。蛍光灯のちらつきが、彼の額の薄い汗を一瞬だけ浮かび上がらせる。
この商店街が、三年後には存在しないかもしれない。
祖母が六十年前に開いた喫茶店「陽だまり」も。あの、真鍮の看板も、レジ横の木の棚に並んだ古いカップも、すべて。
「質問のある方は」
五十嵐の声に、隣の乾物屋の主人が腰を浮かせた。椅子が、きい、と鋭く鳴く。
「強制的に立ち退かされるんですかね」
「あくまで任意のご協力を——」
「任意ったって、周りがみんな賛成したら残れんでしょうが」
空気がざわつく。誰かが深いため息をつき、また別の誰かが貧乏ゆすりを始めた。私は資料の端をそっと折り返す。きつく折りすぎて、紙が白く筋を立てた。指先がわずかに震えているのは、冷房のせいだけではない。
五十嵐が咳払いを一つ。喉の奥でくぐもったその音が、マイクに拾われて場内に広がる。
「では、現場を担当する者を紹介します。桐嶋」
集会所の隅で、誰かが立ち上がる気配がした。革靴の音がゆっくりと前に進む。一歩、また一歩。その足取りには迷いがなく、床のきしみさえ規則正しかった。私はようやく顔を上げた。
瞬間、息が止まった。
壇上に立ったその人は、十年前より背が伸びていた。肩幅も広がり、顎の線も鋭くなっている。黒いスーツの襟元には、控えめなシルバーのタイピン。けれど。
——旭くん。
声に出さなかった。出せるはずもなかった。手からペンが滑り落ちて、床で乾いた音を立てる。からん、というその響きが、静まり返った場内にやけに大きく反響した。
拾わなければ。そう思うのに、指が動かない。心臓だけが、不規則に脈打っている。
旭も、私を見ていた。
一瞬だけ。ほんの一拍、彼の唇が「さ」の形を作りかけて——すぐに引き結ばれた。目元がわずかに細められ、それから何かを振り切るように、きゅっと奥歯を噛んだのがわかった。
「初めまして。東都都市開発の桐嶋です」
初めまして。
その言葉が、するりと胸の奥に刺さった。痛みはなくて、ただ冷たい感触だけが残る。
旭はそれきり私を見なかった。代わりに、壁に貼った図面へと視線を移す。白い指先が、図面上の一点を示した。
「今後のスケジュールですが、まず現状調査として各店舗に個別で伺います」
十年前より低くなった声が、淡々と説明を続ける。私は床のペンを拾えずに、ただ手を組んだ。指が冷たい。かじかんだように節が強張って、うまく絡められない。
あの日、何も言わずに町を出ていった旭が、今は再開発の担当者としてここに立っている。
知らないふり。
それが正解だと、すぐに理解した。彼もそう選んだのだと。声には出さず、瞳の動きだけで交わされた短い決別。それが、十年ぶりの会話だった。
胸の奥で、遠い夏の日の蝉時雨が一瞬だけ鳴った気がした。じりじりとアスファルトを焼いた陽射しと、かき氷のシロップが指にこびりついた感触と、あの日伝えられなかった言葉。それらがすべて、耳の奥でざわりと蘇っては消える。
説明会が散会したのは、外がすっかり暗くなってからだ。窓の外では、街灯のオレンジが濡れたアスファルトに滲んでいる。
私は誰よりも早く席を立った。折り畳み傘を持つ手がかじかんで、骨の一本がなかなか伸びず、もたついた。
「咲良さん」
聞き覚えのある声に、足が止まった。呉服店を営む杉本幸恵さんが、心配そうに眉を下げている。藍染のストールが、蛍光灯の下で深い色を揺らしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
それだけ答えて、私は雨の中へ踏み出した。自動ドアが開くと同時に、湿った夜気が全身を包む。
傘を差す余裕もなかった。細かい雨が髪に降り積もり、ブラウスの肩口を湿らせていく。アーケードを抜けた先の空は、鈍色の雲が低く垂れ込めて、街の灯りをぼんやりと反射していた。
大丈夫じゃないことなんて、自分が一番よくわかっていた。
振り返りたい気持ちを、私は必死に押さえつける。あの集会所に旭がまだいるかもしれない。いや、いる。立ち尽くして名刺を配りながら、涼しい顔で微笑んでいるかもしれない。
それが怖かった。
幸恵さんはそれ以上追ってこなかった。
代わりに、アーケードの入り口で立ち尽くし、私の背中と——たぶん、その向こうの旭の姿とを、交互に見つめているのだろう。親子ほど年の離れた二人は、昔から姉妹のように親しくしていた。だからこそ、今は余計に何も言えなかったのかもしれない。
雨はやまない。
店に戻り、鍵を回す。がちゃりという音が、やけに広い店内に響いた。営業を終えて四時間ほど経つ店内には、コーヒーの残り香がまだかすかに漂っている。
カウンターのスツールに腰掛けて、私はようやく息を吐く。濡れた髪が一筋、頬に張りついたまま、水滴が首筋を伝って落ちた。
祖母の形見のバングルを、無意識に指でなぞっていた。細い金の輪が、かすかに揺れる。十八の誕生日に祖母がくれたそれは、使い込まれて表面が柔らかく曇り、内側には「陽だまり」の刻印が薄く残っている。旭と一緒に選んだ誕生日プレゼントだった、と、祖母が笑いながら教えてくれたのは、彼が町を去った後のことだ。
「知らないふりで、よかった」
声に出して、そう言った。
言ったのに、声が震えた。喉の奥が絞まったようになって、最後の一音がかすれる。
よかったはずなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。胸の真ん中に、小さな釘が刺さっているみたいに、息をするたびにちくりと痛む。
窓を打つ雨が、さっきより激しくなる。私はバングルを握りしめたまま、しばらく動けなかった。スツールの脚が、体重の移動につれて微かに軋む。
明日、店を開けなければ。
開けたとして——旭はいつ、この店に来るのだろう。
現状調査。
その言葉が、頭の中で反響する。建物の構造、営業時間、月商の推移、そしておそらく立ち退き時期の目安。そういうことを、あの落ち着いた声で尋ねに来るのだろう。
十年前の朝、私はここで旭を待っていた。蝉の声がうるさいほどに響く八月の終わり。渡せなかった封筒が、今も二階の箪笥の奥で眠っている。開かれることのなかったその封筒は、黄ばんで、角が擦り切れて、中身の手紙は読まれることなく十年を過ごした。
私は立ち上がり、ブレーカーを落とした。店が闇に沈む。カウンターの上で、カップがひとつ、月明かりを反射して青白く光っていた。
雨音だけが、静かな店を満たしている。窓を打ち続けるその音は、遠くから迫る足音のようにも聞こえた。
明日は、きっと来る。
旭が、ここに。
私は暗い階段を一段ずつ踏みしめながら、そう考えていた。
いらっしゃいませ。
どんな顔で、どんな声で、その言葉を口にすればいいのだろう。