雨の降る商店街で、初恋のあなたと十年ぶりに再会したけれど、互いに知らないふりをしている
第2話 知らないふりの約束
開店から二時間ほど経った午後、雨足が少し弱まった頃合いだった。
カウンターでカップを拭いていると、入口のドアが開く。常連の杉本幸恵が、濡れた傘を店先の立てかけに収める姿が見えた。
「いらっしゃい」
「こんにちは。今日は蒸し暑いわね」
幸恵はいつものカウンター席の端に腰掛けた。年季の入った座面が、きゅ、と鳴る。彼女は商店街で呉服店を営む六十代の女性で、祖母の代からこの店に通ってくれている。今日は水色の絽の小紋に、白い半襟の組み合わせだった。この湿度の中でも襟元がきちんと整っているのは、さすが呉服屋の主人だと思う。
「ブレンドでいいかしら」
「かしこまりました」
私はドリッパーを温めながら、昨日の説明会のことをぼんやり考えていた。雨はまだやまない。軒先から落ちる水滴が、一定の間隔でアスファルトを叩いている。幸恵が何か言いたげにこちらを見ているのに気づいて、私は慌てて豆を挽き始めた。
挽きたての粉に湯を注ぐ。膨らむ粉の表面が、ふわりと盛り上がっては沈むのを待つ。いつもの手順なのに、今朝はやけに指先が覚束なかった。カップを二つ——そうだ、幸恵の分だけだ。
コーヒーを差し出すと、幸恵は「ありがとう」とカップを両手で包んだ。
「昨日は、大丈夫だった?」
私はカウンターの布巾を手に取った。どこを拭くでもなく、カウンターの木目をなぞる。
「大丈夫、です」
短く答えても、幸恵はそれ以上は訊かなかった。ただ静かにコーヒーを啜る。店に満ちる雨音が、沈黙を埋めてくれる。
そのとき、ドアベルが小さく鳴った。
心臓が跳ねる。
振り返る前に、もうわかっていた。スーツの袖が水滴を落とす音。少し乱れた呼吸。革靴がタイルを踏む間合い。
「すみません、まだやってますか」
旭だった。
昨日の説明会と同じ濃紺のスーツなのに、今日は雨に濡れて肩のあたりが黒ずんでいる。手にした傘から、水滴がポタポタと床に落ちていた。傘立てを探す仕草が、少しだけ迷っているように見える。
「いらっしゃいませ」
声は震えなかった。自分でも驚くほど、普通に言えたと思う。
旭は軽く会釈して、カウンターの隅の席に座った。幸恵から二つ分ほど空けた場所。距離を測ったような、微妙な間合いだった。
「ブレンドを」
「かしこまりました」
私はもう一度ドリッパーを温める。幸恵がカップの縁に指をかけたまま、じっと旭を見ているのに気づいた。口を挟まないところが、かえって彼女の関心の深さを物語っている。
沈黙の中、豆を挽く音だけが規則正しく響いた。
コーヒーを差し出すと、旭は「どうも」と短く言った。カップを口元に運ぶ手つきは落ち着いている。スチームの立ちのぼる湯気の向こうで、彼のまつげがかすかに揺れた。
「……変わらないな」
呟きは、ほとんど息だけでできているような小ささだった。
私の手が、カウンターの布巾の上で止まる。
心の奥底で、何かがひび割れるような音がした。変わらない——十年ぶりに口にしたコーヒーに、彼はそう言った。この店の味を、覚えているのだ。
「お二人、どこかでお会いになりました?」
幸恵の声が、静かに割って入る。
旭が顔を上げた。その表情はもう、さっきまでの少し弛んだ気配を消している。
「いや」
一言だけ。
私も何も言えなかった。知らないふり——それが私たちの交わした唯一の約束だった。幸恵はそれ以上追及せず、ただカップを静かに揺らしている。琥珀色の液面が、小さな波紋を描いた。
旭はすぐに業務の話に切り替えた。さっきまでの一瞬の緩みは、もう欠片も残っていない。
「近隣の空き店舗の状況を確認しています。商店街の東側、三軒ほどがもう長く閉まっていると聞きました」
「ええ、そうですね。お菓子屋さんと、鞄屋さん、あとは——」
言葉を継ぎながら、私は旭の手元に目を落とした。カップを持つ左手首。カフスボタンの縁から、白い古傷が少しだけ覗いている。
中学生の夏。近所の空き地で転んで、私がハンカチを巻いてあげた傷だ。あの日は確か、七夕の準備で竹を切っていて——。
そこまで思い出しかけて、旭が顔を上げた。
真正面から目が合う。私は息を呑んだ。
彼の左の眉。目尻寄りのあたりを斜めに走る、古い傷跡。
十年前と変わらない形で、そこにあった。あれも私が手当てした傷だ。私の不器用な手当ての跡が、まだ消えずに残っている。
「何か」
旭が不審そうに眉をひそめる。傷跡に気づかれたことには、気づいていないようだった。
「……いえ」
私は目を逸らす。カウンターの下で、バングルに触れた。祖母の形見の銀が、ひやりと指先に冷たい。
旭はそれ以上は追及せず、空き店舗の続きを尋ねた。私は努めて平静な声で、一軒一軒の状況を説明する。いつから閉まっているか、店主に会ったのはいつか、そんなことを。
会話は途切れた。
旭は空になったカップを見つめている。何かを迷うように、人差し指で縁をそっとなぞった。私は息を整えてから、声をかける。
「おかわり、いかがですか」
「いや、結構です」
答えは早かった。自分で言い出したことを、自分で遮るような、短い否定。
その一言で、私たちはまた他人に戻った。業務的な距離が、カウンターの上に透明な壁を立てる。幸恵が手元のカップを静かに揺らす音だけが、店内に満ちていた。
「また来る」
旭はそう言って席を立った。スーツの袖が、カウンターをかすめる。
「お会計、お願いします」
私はレジを開け、釣り銭を用意した。手が、かすかに震えている。
「おつりです」
差し出した手に、旭の指先が触れた。一瞬。ほんの一瞬だったのに、その冷たさが皮膚に焼きつく。
「……失礼」
旭は敬語で謝って、釣り銭を受け取ると、すぐに背を向けた。ドアを開ける動作が少しだけ乱暴で、傘を取る手つきが急いていた。外はまだ小雨がちらついている。
ドアが閉まる。
雨に滲む商店街を、旭は早足で遠ざかっていく。その後ろ姿を、私はただ見つめていた。
幸恵がカップを置く小さな音がした。
「咲良さん」
何かを言いかけた口が、途中で止まる。私がまだ旭の去ったドアを見つめているのに気づいて、幸恵は言葉を呑み込んだのだろう。
「ごちそうさま」
幸恵も立ち上がった。カウンターに、きっちりと折りたたんだ紙ナプキンが置かれている。彼女がいつもそうするように。
「気をつけて」
私が言うと、幸恵は一度だけ振り返り、「ええ」と頷いた。それから傘を手に、雨の商店街へと出ていった。
店が静かになる。
カウンターに戻り、旭が座っていた席を見下ろす。空のカップ。スプーンは、触れられてもいない。あの人は昔から、コーヒーに砂糖もミルクも入れなかった。
知らないふり。
私はその言葉を、心のなかでもう一度転がす。
知っているのに知らないふりをして、覚えているのに覚えていないふりをして——そうしなければ、きっと息もできなくなるから。
私たちは、ちゃんと大人になったのだ。
カウンターの下に手を伸ばして、古い引き出しを引いた。納品書やら使い古しのメニュー表やらが詰まった、整理しなくてはと思いながら放置していた引き出しだ。
その奥で、黄ばんだ紙の角が覗いているのに気づく。
封筒。
十年前の夏、渡せなかった手紙——それとも、書きかけてやめた下書きの一枚だろうか。はっきりとは思い出せない。ただ、封筒の端が、長いあいだ誰にも開かれずに折れ曲がっていることだけがわかる。
手が止まる。
引き出しを閉じようとして、閉じられない。封筒の角が、ほんの数ミリだけ覗いている。その黄ばみが、十年という時間の重さを私に見せつけている。
雨音だけが、店内に響いていた。