雨の降る商店街で、初恋のあなたと十年ぶりに再会したけれど、互いに知らないふりをしている
第3話 雨の夜、ふたつの沈黙
夕方の雨脚が強まる頃、幸恵が陽だまりのドアを開けた。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
幸恵はいつものカウンター席につくと、傘を丁寧に畳んで足元に置く。その動作が、どこか重たく見えた。
「ブレンドでいいかしら」
「ええ」
サイフォンから注ぐコーヒーの香りが、湿った空気に溶けていく。カップを差し出すと、幸恵は一口含んでから、ゆっくりと顔を上げた。
「咲良さん、聞いてる? 五十嵐って男のこと」
手が、一瞬止まる。
「……再開発の説明会にいらしてた方ですよね」
「あの男、空き店舗を片っ端から買い占めてるのよ。昨日までで五軒。今日また二軒、契約を済ませたそうよ」
五軒。二軒。数字が頭の中で冷たく並ぶ。
「このままじゃ、商店街の三分の一が東都の持ち物になる。それも、あの五十嵐って男が個人で買い上げてるっぽいの」
「個人で、ですか」
「ええ。どういう仕組みかは知らないけど」
幸恵はカップを両手で包み込むように持った。皺の刻まれた指先が、かすかに震えている。
「桐嶋さんは、ご存知なのかしらね」
カウンターの下で、私は左手首のバングルに触れた。銀の感触がひんやりと指に返る。
「……さあ」
それだけ言って、私はカップを拭くふりをした。
「咲良さん」
「大丈夫ですよ、幸恵さん。うちはまだ、何も言われてませんから」
幸恵は何かを言いかけて、口を閉じた。窓の外を、雨が叩く。アーケードの屋根を伝う雨音が、遠くで獣の唸りのように響いている。
彼女はコーヒーを飲み干すと、いつものように紙ナプキンをきっちり折りたたんだ。
「十年前の朝、旭くんが荷物を抱えて駅に向かうのを見たの」
カップを下げようとした手が、止まった。
「声をかけようと思ったんだけどね。あんまり必死な顔で走っていくから」
「……そう、ですか」
「ごめんなさい。今さら、こんな話」
幸恵は立ち上がり、傘を手に取った。
「咲良さんは、よくやってるよ。おばあちゃんも、きっと喜んでる」
「ありがとうございます」
ドアが開き、雨の匂いが店内に流れ込む。幸恵の後ろ姿がアーケードの向こうに消えるまで、私はカウンターに立って見送った。
閉店の看板をかけようとした、その時だった。
ドアが再び開く。
傘をたたむ音。黒いスーツの肩に、雨粒が光っている。
旭だった。
「まだ、大丈夫ですか」
低い声が、雨音を切り裂くように届く。
「……ええ、どうぞ」
旭は迷う素振りも見せず、まっすぐにカウンター席へ歩いてくる。前回と同じ席だ。傘を立てかけ、スーツの内ポケットから封筒を取り出す。
「先日はできなかった、正式なスケジュールのご説明を」
「そうですか」
私はカップを用意しながら、平静を装った。
「コーヒー、お入れしますね。ブラックでよろしいですか」
旭の手が、ほんの少しだけ止まった。
「……お願いします」
サイフォンのアルコールランプの火が、ゆらりと影を揺らす。私は手際よく豆を挽きながら、旭が封筒から書類を取り出す気配を背中で聞いていた。
「基本計画の概要は、先日の説明会でお示しした通りです。ただ、陽だまりさんのある区画は、計画区域の中心部にあたります」
カップを旭の前に置く。湯気が細く立ちのぼった。
「来年三月までに、区画内の全店舗との個別協議を終える予定です。再来年の春には着工、完成はその三年後。逆算しますと、この商店街で営業できるのは、あと二年が限度かと」
二年。
私はカップを拭きながら、その数字を胸の中で転がした。二年は、長いのか短いのか。
「……決定事項、なんですね」
「まだ計画段階です。ですが」
旭は言葉を切り、コーヒーを一口飲んだ。
「五十嵐は、すでに空き店舗の買収を進めています。ご存知ですか」
「先ほど、人づてに」
旭の指が、カップの取っ手を強く握る。
「あの男は、やり方が強引だ」
その声の調子に、私は顔を上げた。旭は書類に目を落としている。眉間にかすかな皺が寄り、左の眉の古い傷がひときわ濃く見えた。
「……ご存知なんですか」
「仕事ですから」
それきり旭は黙り、残りのコーヒーを静かに飲み干した。
店内に、沈黙が満ちる。
旭が立ち上がり、財布を取り出した。私はレジを開ける。会計のやり取りは、前回と同じようにぎこちなかった。
「おつりです」
差し出した私の手首で、三つのバングルがかすかに鳴った。
旭の視線が、そこに留まる。
「それは」
言いかけて、彼の唇が固く結ばれる。伸ばしかけた指が、空中で止まり、ゆっくりと引っ込められた。
「……祖母の形見です」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
旭は何も言わない。ただ、私の手首を見つめている。その瞳の奥で、何かが揺れている。十年前の夏の光か、それとも今、窓を叩く雨の影か。
「そうですか」
彼はそう呟くと、釣り銭を受け取り、背を向けた。
ドアを開ける。雨が、一瞬息を吹き返したように強く降る。
「また来ます」
旭は振り返らずに言った。
「……お待ちしています」
ドアが閉まる。雨音が、すべてを包み込む。
私はカウンターにもたれかかるようにして、旭が座っていた席を見つめた。空のカップ。触れられなかったスプーン。
知らないふり。
それでも、あなたはバングルを覚えていた。祖母がくれたこの銀の輪を、あなたは確かに知っていた。
カウンターの下の引き出しに手を伸ばす。納品書の束、古い伝票、使い込まれたメニュー表。その奥に——指先が、何かに触れた。
紙の感触。
引き出しの一番奥、祖母が「大切なものはここにしまっておきなさい」と言っていた場所だ。
封筒を取り出そうとして、指が止まる。
何も書かれていない。黄ばんだ封筒。十年前の夏、私が書いた言葉が、まだその中で眠っている。
息を呑んだ。
封筒を手に取ることはできなかった。代わりに、左手首のバングルにそっと触れる。銀の冷たさが、指先からじんわりと広がる。
雨は、まだやまない。