雨の降る商店街で、初恋のあなたと十年ぶりに再会したけれど、互いに知らないふりをしている
第4話 雨の向こうの十年前
雨はまだやんでいなかった。
カウンターにもたれかかったまま、私は指先だけで引き出しを引く。古いレールの擦れる音が、誰もいない店内に響いた。
封筒がある。
黄ばんで、宛名も何も書かれていない。けれど、それが何かはわかっていた。
引き出しの一番奥。祖母が「大切なものはここにしまっておきなさい」と言っていた場所。私は十年間、ここを開けられなかった。開けるたびに封筒の端が見えていたのに、見ないふりをして、その上に納品書や伝票を重ねてきたのだ。
指先が震える。
息を吸って、封筒を手に取った。
糊付けされた口は、かすかに開きかかっている。十年分の湿気と乾燥を繰り返した紙は、少し力を入れただけで破れてしまいそうだった。
中から出てきた便箋は二つ折りで、開くとインクの色が少し褪せていた。
丸みを帯びた文字。十七歳の私の字だ。
『旭へ』
たった二文字で、喉の奥が詰まる。
『旭へ。こんな手紙、渡せないかもしれない。でも、書かずにはいられなかった。私は旭のことが好きだ。友達としてじゃなくて、小さい頃からずっと、一人の男の人として見てた。気づいてた? きっと気づいてないよね。旭はいつも、私のこと妹みたいに扱うから。それがちょっと悔しくて、こうして手紙を書いてる。夏が終わる前に、ちゃんと伝えたい。旭は、私のこと、どう思ってる?』
そこで文字は一度途切れ、インクの色が変わっている。別の日に書き足したのだろう。
『昨日はごめん。花火大会で、あんな言い方しなきゃよかった。でも旭だって、いきなり町を出るなんて言うから。高校も辞めるって、それってあんまりだよ。私、旭がいなくなるのが嫌だ。お願いだから行かないで。好きなんだよ、旭のこと。誰よりも、何よりも。』
涙が落ちて、十年前のインクを滲ませた。
慌てて便箋を離す。だけどもう遅い。「好きなんだよ」の文字が、ほんの少しだけ輪郭をぼかしていた。
私は手紙を胸に抱いた。十七歳の私が、ここにいる。この手紙を渡せなかった私が、まだこの店の奥で、息を潜めて待っている。
東都都市開発の現地事務所は、商店街から少し外れた雑居ビルの二階にある。
旭は始業より二時間早く出社していた。警備員に軽く会釈してフロアに入り、自分のデスクではなく、奥の応接室へと足を向ける。
五十嵐の机だ。
五十嵐は今日、本社での打ち合わせで終日事務所を空ける。旭はそれを知っていた。
デスクの上は整理整頓され、書類立てには「星見プロジェクト」と書かれたファイルが並んでいる。その中から、「用地取得進捗」と手書きされた背表紙のファイルを抜き出した。
ページをめくる。
空き店舗の一覧。所在地。名義人。取得予定額。そのすべてに、五十嵐の個人的な走り書きが添えられている。
そして最終ページ。
「関連会社スターリアルエステート名義にて取得済み」の文字の下に、商店街の地図があった。赤いシールが貼られた物件が、七つ。
陽だまりの隣の空き店舗にも、赤いシールが貼られていた。
旭はスマートフォンを取り出し、ファイルの全ページを撮影した。一枚一枚、指が震えないように押さえつけながら。
「……やっぱりか」
呟きは誰にも届かない。
彼はファイルを元の位置に戻し、自分のデスクに戻った。パソコンを立ち上げ、上司宛てのメールを作成する。
件名は「星見プロジェクトにおける不適切な用地取得について」。
旭の指が、左の眉の傷跡をなぞる。幼い頃、咲良と遊んでいて転んだ時にできた傷だ。あの日も、雨が降っていた。
送信ボタンを押す。
画面に「送信完了」の文字が表示された。
午後になっても、雨は降り続いていた。
いつものブレンドを淹れながら、私は二度、砂糖の量を間違えた。三度目の客が去ったあと、手が空くのを待っていたかのように、ドアが開く。
「こんにちは」
幸恵だった。雨に濡れた傘を丁寧に畳み、いつものカウンター席につく。
「ブレンドでいい?」
「ええ」
カップを差し出すと、幸恵は一口含んでから、じっと私を見つめた。
「咲良さん、なにかあった?」
手が止まる。
「……どうしてですか」
「顔に書いてあるわよ。眠れてないんじゃない?」
私は曖昧に微笑んで、カウンターを拭くふりをした。幸恵はそれ以上追及せず、静かにコーヒーを飲んでいる。
しばらくして、彼女はカップを置いた。
「ねえ、咲良さん」
「はい」
「この前は言わなかったけど、私ね、あの子が町を出ていく朝を見てるの」
顔を上げる。
「……旭の、ことですか」
「ええ」
幸恵はカウンターに置かれたナプキンを、いつものようにきっちりと折りたたんだ。
「十年前の八月の終わり。早朝で、商店街にはまだ誰もいなかった。私、仕入れの準備で早くに店を開けててね。そしたら、あの子が大きな荷物を抱えて駅のほうに歩いていくのが見えたの」
幸恵の声は、雨音に紛れそうなほど静かだった。
「でもね、その前の晩からずっと、咲良さんの家の前に立ってたのよ、あの子」
耳の奥で、何かが鳴った。
「……うちの、前に」
「ええ。夜の八時頃から、次の日の朝まで。ずっと立ってた。私は店の二階の窓から見てたの。声をかけようかと思ったけど、あの子、必死な顔でね。でも結局、インターホンを押さなかった」
幸恵は顔を上げ、優しい目で私を見た。
「だから今回、あの子が知らないふりをしてるのを見て、なにか事情があるんだろうなって思ってた。咲良さんも、もしかしたら知らないのかもしれないって」
手すりの感触が、指先に蘇る。あの喫茶店の二階。部屋の明かりを消して、カーテンの隙間から下を覗いたのは、旭が町を出る前の晩だ。
あの時、私は怖かった。話しかけたら、旭が本当に行ってしまう気がして。だから電気を消して、いないふりをした。
「……私、見てたんです」
声が震える。
「二階の窓から。旭がうちの前にいるの、知ってました。でも、出ていけなかった」
幸恵は何も言わない。ただ、そっと私の手に自分の手を重ねた。
「ごめんなさい、咲良さん。もっと早く言えばよかった。でも、あなたが自分で気づくのを待ってたの」
幸恵は立ち上がり、傘を手に取る。
「私はこれで帰るわ。また明日」
「……ありがとうございます」
ドアが閉まる。
店内に、コーヒーの香りと雨の匂いが残った。私はカウンターの下の引き出しを開け、手紙をもう一度取り出す。
十七歳の私の文字。
今度は、封筒をエプロンのポケットに入れた。
夕方、閉店の準備を始めようとした時だった。
ドアが開く。
傘をたたむ音。黒いスーツの肩に、雨粒が光っている。
旭だった。
「まだ、大丈夫ですか」
低い声が、雨音を切り裂くように届く。昨日と同じ台詞なのに、その響きはどこか切迫していた。
「……ええ、どうぞ」
旭はカウンター席に歩いてくるが、座らない。傘も立てかけず、手に持ったままだ。
「少し、話がしたいんです」
敬語だった。
私は、どきりとした。旭は昔、本当に困った時や、何かに傷ついた時、急に敬語になる癖があった。同級生にだってタメ口だった旭が、私にだけ敬語を使うのは、心に壁を作っている証拠だった。
「……コーヒー、入れますね」
「いえ、そうじゃなくて」
旭は言葉を切り、唇を結ぶ。左の眉の傷が、店内の薄暗さの中で一層濃く見えた。
「俺は」
そこで言葉が止まる。
旭の拳が、カウンターの上で強く握られた。彼が何を言おうとしているのか、私にはもうわかっていた。でも、まだ言わせてはいけない。
「旭」
名前を呼んだ。
旭の肩が、わずかに揺れる。
「知らないふり、やめてもいいかな」
旭は何も言わない。ただ、私の目をじっと見つめている。
私はエプロンのポケットから封筒を取り出した。黄ばんだ封筒に、何も書かれていない。それでも旭には、それが何かわかったようだった。
「これ、昨日見つけたの」
声が震える。喉の奥が熱い。
「十年前の、あんたへの手紙」
旭は一瞬息を呑んだ。
そのまま、動かない。雨音だけが店内を満たす。
私は封筒を差し出した。手が震えている。バングルが、かすかに鳴った。
旭の手が、ゆっくりと封筒に伸びる。
十年前の夏が、雨の向こうから音もなく近づいてくる。